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[5235-予算特別委員会 教育費・特別会計 ](2019/02/22(Fri.) )
予算審議は5日目。
主に教育費と特別会計。
台東区の財政支出のうちの教育関係部分。特に教育はその権利を憲法で保障された重要なもの。
私も委員会で頻繁に発言しますが「教育は政治・宗教から離れた独立自治を要するもの」と考えます。
なので、公費で賄われる教育関連の財政支出は、受益者負担の私費支出との関係性の中で
文化的再生産費用の分担実態を示すものとして重要であると考えます。
教育を受ける権利の保障のための公共負担の原則と、受益者負担の原則の具体的関連が、
両者の支出実態に現れているとみることもできます。
審議では区内の教育に関わる総務費全般から始まり、小学校・中学校・幼稚園・生涯学習関連など。
多岐にわたる事業の精査・確認と要望が多く述べられました。
議員になった当初、私は「教育」を議会で語り合う時、学校などの事業について、
教育現場の声を聞きながら、ただ単純に議員としての意見を言えばよい程度に考えていました。
しかし、その議論の前提には「公的役割」と「私的領域」の狭間で、
「教育の自治」という独立性が担保されなければなりません。それを改めて認識したのです。
かつて、ルソーが書いた「エミール」で教育が説かれた時。
彼は教育に関して、それまでにない斬新な発想を提供しました。
一つは教育の目標として人間の自然性という概念を持ち込んだこと。
もう一つは教育の対象としての「子ども」を発見したことです。
ルソーは「教育」を人間としてふさわしい生き方ができるように導くことだと説いたのです。
議員になって、20年の歳月を経て、ようやく私は彼が説いた意味を理解できるようになりました。
そもそも「教育 Education」というフランス語を考えるとラテン語の
「引き出す」あるいは「導き出す」という意味の言葉を語源としているそうで。
つまりは人間として本来誰にもそなわっているもの、それを引き出すのが教育だというのです。
これを実践するためには、圧倒的な知識と情報を備えた教育技術を要した「公」の役割と、
それを「教育の独立性」を担保された場所で受益・選択していく「私・子」の役割があるわけです。
つまりは、ルソーが説く「人間のあり方」とは、「学問・芸術論」や「人間不平等起源論」で
展開された自然状態における人間、すなわち「自然人」とパラレルなものと考えてよいのかと。
議員として様々な議論を繰り返しながら、私はそう思うようになったのです。
誤解を恐れずに書けば、この前提となる「教育論」を共有していないから、
時折、議会で「政治が教育に介入しているような発言」が起きる。
一方、我々議員が属する「政治」の話も似たようなものです。
ルソーの「社会契約論」は、政治体について、人間が失ったものを取り戻して自分自身の主人となり、
しかも互いに平等でかつ自由な生き方が保障されるような制度がどのようにして可能かを論じたものでした。
この「エミール」は、今の社会が見失った自然人としての人間のあり方を、
個々の人間においてどのようにすれば取り戻せるかを論じたもので。
「政治」と「教育」という一見、別のものに見えるものの本質論は一緒だと痛感したのです。
【偏見、権威、必然、実例、わたしたちを押さえつけているいっさいの社会制度が
その人の自然を絞め殺し、その代わりに何にももたらさないことになるだろう。】
この言葉は至言で、議員として「教育」いや「政治」を語る上で何より心に留めなければならないと。
任期最終の予算審議で改めて認識したと同時に、議会報告の総括として皆様と共有したいものです。
皆様、今期も拙い「議会活動報告」を堀越日記やFBで共有して頂き、誠にありがとうございました。
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