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 台東区議の堀越秀生「ほりこし日記」:

転換期を迎える日本に情熱でたちむかう!!継続中

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(週末独り言(6月第1週) 〜 2019/03/06(Wed.) )


  [5253] 若者よ、選挙に出でよ! 週末独り言(6月第1週) 


    一度きりの人生、『寄らば大樹』じゃねえ。
     
     政治に文句ばかり言っている”台東区の若者”よ。
     次の選挙の場に出て、一緒に戦おう。
     求めているだけでは始まらない、行動しないと。
     放っておくと・・・安易な「自民党の先祖返り勢力」が台東区を跋扈するぞッ。(笑)

      『選挙に出でよ、台東区の気概ある若者よ!!』
     
     最近、お世辞ではなく、深谷隆司氏や田口はるよし元区議は偉い政治家だと思うようになりました。
     「政治家は一代」という言葉、見事に実践したわけだから。
     ある意味、「人生の評価」は実践する人のみが得られるのだと実感。

[ http://www.horikoshi.org/cgi-bin/note2/c_note.cgi?v=5253 ]


  [5252] 小沢一郎の言葉の重み 2019/06/06(Thu.)  


最近の永田町を眺めていると、尊敬する小沢一郎の言葉を思い出す。

      民主主義は社会民主主義の要素を取り入れることによって生き延びてきた。
      原始資本主義はまったくの自由放任だった。
      そこから共産主義と民主主義が生まれたけれども、共産主義は自己矛盾を抱えて崩壊した。
      「新自由主義」という言葉があるが、それは原始的な民主主義に戻そうという話だ。
      安倍さんの経済政策は、その考え方だろう。
      自由競争で勝った者だけが生き残ればいい、負けた者はいらないという考え方。
      僕からすると、反歴史的な政策に見える。
                                 (小沢一郎)


[ http://www.horikoshi.org/cgi-bin/note2/c_note.cgi?v=5252 ]


  [5251] 子供達の自立支援を考える 2019/06/05(Wed.) 


大学時代にお手伝いしていた児童養護施設の関係で「子供たちの自立支援策充実」の勉強会に出席しました。
今、親の虐待や困窮、死を越え、ひとり立ちしようという子供たちの社会問題が山積しています。

たとえば、施設で暮らす子どもたちは、児童福祉法により原則として18歳、
多くは高校卒業とともに退所を迫られるのが現状ですが。
親に頼れず、公的な支援もほとんどない中、自立には困難がつきまとうのが現実です。
都児童福祉入所施設協議会の調査では、施設を出て1年以内に転職するか無職になる子どもは半数に上ります。
困窮し食べることもままならなくなったり、お金の管理や自炊に戸惑ったりと、生きていくのに苦闘しているのです。
虐待などで大人への不信を抱いている子どもも多く、対人関係に苦労も大きいのです。
そこで、20歳になるまで施設などで過ごせるようにできないか問う意見も多数あるのですが。
厚生労働省の専門委員会が検討し、今国会に提出した児童福祉法改正案には、その規定が盛り込まれませんでした。

一方、一時保護中に施設に入れる対象は20歳未満に拡大します。
共同生活による支援施設「自立援助ホーム」も22歳の年度末までの学生を対象に加えましたが、
施設数が少なく利用者は限られます。子どもたちの厳しい現状をみれば、さらなる支援充実の必要性は明らかです。
周りの人に助けてもらいながら社会とつながります。
信頼できる大人と出会う。働くこと、自分に合う仕事を考える。
そんな機会をつくるのが目的です。
これらは、子どもたちに対する社会の理解にもつながっているのです。
しかし、これらは支援策の一つでしかなく。
人と関わって相談できる力やお金の管理、食事作りなどを身につけられるよう、施設での養育に工夫も必要かと。
また、施設を出た子どもが困ったとき、相談に乗り、支える仕組みも求められるわけで。
親に代わって社会で育てる子どもたちが、自立して生きていけるよう育み、支えるのが社会の責務と痛感します。

[ http://www.horikoshi.org/cgi-bin/note2/c_note.cgi?v=5251 ]


  [5250] 選挙が近いと自民党は 2019/06/04(Tue.)  


選挙になれば「耳に心地よいこと」を言うのは政治の常。
自身のことを振り返ってみても、例外ではないと反省することも多々。
しかし、「事実を伝えない」「事実を隠す」となってくると話は別で、政権与党のズル賢さも見え隠れします。
「庶民の暮らしを考えて」とかなんとか・・・
いかにも「弱者の味方」という姿で枕言葉を連発しながらも、
「庶民のための政治」なのか「権力のための政治」なのかと理解できなくなる政治連もあるような。

皆さんはご存知でしょうか?

”国の財政が大変だ”と言われて導入された消費税は1989年に3%、97年に5%、そして今は8%。
一方、法人税はというと、84年に43.3%、89年に40.0%、90年には37.5%。
そして、98年には34.5%になり、99年には30.0%になり、なんと2012年には25.5%に。
消費税が導入された1989年から見ても、法人税は14.5%も減少しているのです。
さらにこれから、38.01%(法人税・法人住民税・法人事業税の合計)の法定正味税率を20%まで下げると。

まあ、「日本の企業力」を世界と対等にするという目的のためには仕方ないと言われるかもしれませんが、
政治として、ここで問題にしたいのは「税収の検証」であります。
いわゆる法人3税(法人税・法人住民税・法人事業税)の税収は1989年が最高で29.8兆円。
現在は17.6兆円まで下がってきていて、累計では89年から255兆円も減収となっています。
一方で消費税導入の89年から現在までの消費税税収総額は282兆円で。
事のつまり、消費税の税収が、そのまま法人減税の原資になっていることに気づきます。

驚くことに、私が先日読んだ『税金を払わない巨大企業(文春新書)富岡幸雄・著』によれば、
実行税負担率1位の三井住友ファイナンシャルグループは1479億円の利益に対して納税額は300万円。
2位のソフトバンクでも、利益788億円もあるのに納税額は500万円とのことです。
これは、法人税には特別措置法による政策減税などの優遇措置が多くあったり。
輸出企業では、海外の売り先から消費税を取れない事情もあるので「消費税還付金」なる優遇措置があるからです。

生きるている限り、毎日の夕飯の買い物をしなければならない庶民にとって、消費税は逃れられない税金。
そんな苦しく、生活を追い詰める消費税を10%にまで上げることは確約しておいて。
一方で、「庶民からとった消費税」を原資に大幅に減税した「法人税」の話は絶対にしないという人々。
こんな輩が仕切る政権与党なんて、信じられるはずもありません。
そして、挙句の果てには、「食料品などの日用品には軽減税率を」などと平気で叫ぶ。
まさか、選挙後に「新聞も一緒にね」とは言わないと信じますが。
本当の「庶民の味方」とは誰か?
そろそろ、他力本願のお願いばかりの生活から離れ、
一人一人が自立して生きる、そんな悟りが必要だと思われますが。。。

[ http://www.horikoshi.org/cgi-bin/note2/c_note.cgi?v=5250 ]


  [5249] 孤独なボーリング 2019/06/03(Mon.)  


孤独なボウリング―米国コミュニティの崩壊と再生 単行本 – 2006柏書房
ロバート・D. パットナム (著), Robert D. Putnam (原著), 柴内 康文 (翻訳)

【解題】
表紙の丸い写真は「ボーリング」風景。
通常「ボーリング」ゲームはグループでするのですが。
それを一人でするという”孤独”感を意味しているのです。

この本の中身は、アメリカのボーリングを愛するコミュニティの話です。
日本人には不思議でしょうが、戦後、アメリカではボーリングが町の娯楽であり、地域コミュニティの礎でもあったのです。
そう、台東区における「町会」や「お祭りの会」のように。
第二次大戦以後、あらゆる組織が活性化していて未来永劫参加者は増え続くものに見えていたのですが、
やがて参加者は減少し活動は縮小していく傾向に。この原因は何であったのだろうか?
日本も同じような現象が起きています。町会の組織率低下とか・・・。
あらゆる組織が、参加者の減少により高齢化とともに消滅しつつあるのです。

コミュニティにおける「社会関係資本」とは、人間関係である「コネ作り」のことですね。
「誰を知っているか」が仕事を見つけることでもありました。
アメリカも日本も発展している時期にはこの「社会関係資本」がものをいったのです。同郷、学閥、同門など。
これらの関係は、結束でもあり、橋渡しでもあるのですが、決して重要な要素ではなくなってしまいました。
だからなのか、旅行を扱う代理店にしても、銀行・保険などの営業にしても、
町会などの一つに団体と深く付き合っていた「担当者」の価値が薄れてきた感。
つまり、専属で「コミュニティ」と付き合うメリットが、その組織率の低下で段々となくなってきたのです。

また、旧来の「コネ」世代であるベビーブーマーは60〜70代になり、現役を離れはじめているのです。
だからこそ、コミュニティの精力的な創始者達は80代になってしまい求心力を失ったのです。

そこで、本書は読者に語りかけます。
著者は膨大な資料と事例とを揚げながら、簡潔に、冒頭の序論の最終部で本書の目的を具体的に書いているのです。
64歳のランバートに33歳のアンディが生体腎移植を申し出る話。
ランバートは黒人の老人(1997年当時では老人といえた)で若いアンディは白人でありました。
二人を結び付けたのは、ボーリング仲間であったこと。
世代も生活水準も人種も職業も越えた人としての感性が絆であったのです。
『我々アメリカ人はお互いを結び付けなければならない。』
本書のシンプルな主張はこの点にあるのです。
日本においても、町会や各種団体の組織率はどんどん低下してきており、
コミュニティの構成員が減少する中、どうやってコミュニティ機能を維持していくのか。
アメリカの「ボーリングコミュニティ」を眺めていると、日本の進むべき道が想像できるようです。 

[ http://www.horikoshi.org/cgi-bin/note2/c_note.cgi?v=5249 ]


  [5248] 選挙総括 ゴールデンウイーク 


思えば遠くへ来たもんだ。

これが、今回の選挙に対する私の感想です。
「十年一昔」という言葉がありますが、皆様に支えて頂き、私は20年間も区議をさせて頂きました。
この間、「行政主導」から「政治主導」への戦いに挑んできましたが。
小学校の時と変わらず、クラスに男子が20人いれば、戦闘士5人、馴れ合い10人、日和見5人という構図。
なかなか、改革派闘志が多数派になるのは難しい。
人間は幾つになっても、どの職場にいっても、この黄金比率は変わらないですねえ。
というわけで、台東区議会も先鋭的な改革は難しい環境です。
寄らば大樹・・・人間は切ない生き物です。(苦笑)

思い起こせば、私が議員になった頃、自由党は国会議員30名程の小さな政党で。
自民党学生部委員長時代から尊敬していた小沢一郎先生が率いる、政治に対する原理主義を貫く政党でした。
そして、あれから20年弱、民主党など他の勢力と結集して「政治改革」を掲げて政権も取りましたが。
結局は政権内の「官僚迎合・米国追従」の方達の力が強く、小沢の掲げる「政治主導・官僚改革」は頓挫したわけです。
そして、真剣に日本の行政構造を再構築しようとした小沢は、霞が関首脳と米国の反感を買いました。

世間的には小沢は「陸山会事件」で失脚したように、マスコミによって世の空気感は誘導されていますが。
自民党の甘利事件や小渕事件と異なり、収賄の構成要件が皆無で、尚且つ政治資金規正法においても
帳簿誤記に限られた疑義で秘書がいきなり逮捕という事態は法治国家としては異例。
事のつまり、これは明らかに国家権力側に意図があって、自民党政治家と違う法的対応をされたという。
まあ、ただ、この点に対して恨み節だけを述べていても仕方ないので。
現場にいる我々はもちろん、小沢に関係の無い皆様も、「日本の本当の仕組み」を深く理解することが要諦かと。
結局、いつの時代も「理想の政治」は「権力を貪る既得権層」との闘いなのです。

簡単に書けば・・・

国民と相思相愛とはいえなかったけど、自分の生きた「日本の政官の悪い部分」を変えようとした小沢が、
その国民によって「真の目的」を理解されないまま、誤解され続けて失脚していったという。
さて、この風景をずっと眺めてきた我々小沢一派、そして当の私は何を考えているのでしょう。
古い仕組みを変えられない、官僚主導を変えられない、そんな政治に嫌気がさしているのか。
あるいは、まともな民主主義国家に至らない日本政治に幻滅して、抜け殻のように適当に現場にいるのか。
最近、自分自身で己の心中を冷静に分析してみると・・・。
どうも、上記の両者とも、私の心の根と違う感覚、いや確信を覚えるのです。
台東区議会6期目としての心境を素直に書けば。。。

「燕雀安んぞ鴻鵠の志を知らんや」とまで高飛車で自己満足的な思いはありませんが。
「臥薪嘗胆」、薪の上に寝て身を苦しめ、いつか会稽の恥を雪ごうと苦い胆を嘗めている日々です。

[ http://www.horikoshi.org/cgi-bin/note2/c_note.cgi?v=5248 ]


  [5247] 初心を忘れず、新たなスタート!  平成31年4月吉日 


”Stay hungry, stay foolish”

皆様、誠にありがとうございました。
お蔭様で当選することができました。

今後も20年前の初陣でお約束した通り、行政の仕事に敬意を払いつつ、しかし行政に媚びることなく。
堀越らしく、シガラミの無い立場で、区民益のために議会で発言して参ります。
私の考えがぶれぬよう、そして思い込みで行動しないよう、皆様からの御意見・御指導を引き続きお願いします。

選挙後、公職選挙法の絡み、並びに諸般の事由で日記を休止しておりましたが。
新たに日記を再開します。

今後とも、宜しくお願いいたします。

[ http://www.horikoshi.org/cgi-bin/note2/c_note.cgi?v=5247 ]


  [5246] 【選挙前最終投稿】〜放熱の証 尾崎を思う〜 週末独り言(3月第1週) 


この任期4年間、皆様の温かい御心に支えられ、
台東区で働くことができました。
誠にありがとうございました。

議会が終了してからの一週間、
日々、台東区を歩きました。
雨が降る日には谷中のお寺から沈丁花の香りが。
晴れた日には上野から綺麗な青空が見えました。

そして、思い出しました。

16歳の春。
大学の付属校に入学した当時、私は外部生で友達もいなくて。
学校が終わると東横線日吉駅から電車に乗って渋谷に行き、
中学時代の塾友達と一緒に遊んでいました。
ある日、私と同じ付属高外部生の彼が連れてきたのが有名になる前、高校1年の「尾崎豊」でした。
3人で夜まで渋谷センター街のゲーセンで遊んで。

もし、彼が生きていたら、今の時代にどんな歌を書くのか。
「あの頃と何も変わってねえな、今の時代も」と嘆くのか。
彼がいない今となっては、もう分からないことですが。
この20年間、そんな事を考えながら、ずっと政治に関わってきました。
そして、今回の選挙も変わらず…『僕が僕であるために』…を聴きながら始まりを迎えます。

これから、どんな時代になるのか誰にも分かりませんが。
時代と共に移りゆく台東区の中で、
初心を忘れず、これからも精進して参ります。

皆様、変わらぬ御指導の程、宜しくお願い致します。

時代を変える情熱、継続中!!

平成31年3月9日
台東区議会議員 堀越秀生

[ http://www.horikoshi.org/cgi-bin/note2/c_note.cgi?v=5246 ]


  [5245] ウルリッヒ・ベックの社会論 2019/03/07(Thu.)  


東日本大震災から、まもまく8年経ちます。
今でも、選挙の関係で東北に行くと、まだまだ復興は難しいのだと思います。
見た目の街が復興しても、被災された方々の心、そしてまた「東北を避けるような他地方の目」は判然とあります。
ここまで書いてよいのか分かりませんが・・・
私の知人にも「東北はまだ怖いから温泉は南の方で」と偏見を持ち続けている方もいるのです。

そして最近、改めて、3年前に亡くなったドイツの社会学者の言葉を思い出すのです。
現代社会が抱えるリスクを警告した著書「危険社会」(1986年)で知られ、
福島第1原子力発電所事故を受け、脱原発を提言したドイツ政府の諮問機関
「倫理委員会」のメンバーも務めたウルリッヒ・ベックという社会学者がいました。
彼は地震などの災害による「原発の危険性」を指摘していました。

生前、彼の提言どおりにドイツでは「発展した現代社会の異物である原発段階的撤廃」を早々に決めました。
彼が「リスク社会論」で述べたところによれば、経済や科学技術の発展による富の社会的生産や政治的変革と並行して
多様で複雑化したリスクが社会的に生産される社会が出現したといいます。
まさにこれは、戦後の高度経済成長にのって、高生産化・合理化・効率化を求めてきた”日本の現実”でもあって。
ドイツで語った、彼の言葉は日本人の我々にも響きます。
果たして、日本は「3.11」の後に何処へ向かうべきなのでしょうか。
そんな事を考えている内に、その他の大地震が次対起こり、時代に思考が取り残されていく我々がいます。

    〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

     すなわち,自立的かつ自律的に見える産業主義のシステムは、
     この21世紀初頭、自らの論理と境界を打ち破ることによって、自己を解消する過程に入った。
     この根本的な変化が,近代化が再帰的となる現代の位相の特徴なのである。
     近代化は、産業主義的近代の内部でさまざまな経路や潜在的可能性について苦心し続けるのをやめ、
     今や、産業主義的国民国家の社会的、政治的、文化的な基本原理と基本制度を捉え、
     これらを破壊することによって、産業主義的近代と対立する新しい潜在的可能性を拓く。
                                      (ウルリッヒ・ベック)

[ http://www.horikoshi.org/cgi-bin/note2/c_note.cgi?v=5245 ]


  [5244] 新たな差別を生む可能性もある 2019/03/06(Wed.)  


前に日記に書きましたが、私が議員になって初めて触れた”政治新語”は『ジェンダー(gender)』でした。
選挙前、改めて思い出しました。

日本では『社会的文化的性差』という意味で捉えがちですが、本来は『社会的・文化的な性のありよう』が正訳。
だからなのか、「男女間の性的長所」の議論を先に封じ、「男女間の性的短所」ばかり論じ合ってきた感が。
実際に、私が大学生の時(1985年)に制定された「男女雇用機会均等法」からのそんな流れを汲んで、
「男女共同参画」という名のもとに女性中心的な行政事業が”ジェンダー事業”として拡散しています。
しかし本来は、『社会的・文化的な性のありよう』が政治では論じられるべきで、
男女が共に先天的に持っている特性や、性同一性について、
社会や政治が如何にあるべきかを考えることが重要なのだと思われます。

こうした人権感覚が進んでくると、政治の舞台でも様々な「弱者保護」の議論が出てきます。
最近では『アファーマティブ・アクション(affirmative action)』もその一例かもしれません。
これは「弱者優遇政策」のこと全体を指す言葉ですが、例えば、アメリカの民族比率に応じた従業員比率。
あるいは、大学入学定員の少数民族優遇策、管理職の民族比率の励行、etc,.
この「民族差別」の解放の意で唱えられた言葉を、日本では「生活弱者」に適用しようという左翼的な動きもあります。
・・・というのも・・・
この『アファーマティブ・アクション』という言葉の裏には故意に「差別」を社会論として浮き上がらせ、
「民族論で唱えらえる優遇政策要求」の歯止めにしようとする輩もいるからです。
まさに、社会に潜在的にある「差別」を先んじて論じ、それを守ることは「逆差別」のように煽る風潮。
実際、アメリカの大学の一部では、アファーマティブ・アクションを施行していることに対して強い批判があります。
学力が無い者を受け入れているという批判です。
また、企業においても就業能力の無いものを採用しなくてはならないことへの批判です。
事左様に、アメリカでは「差別主義」への批判を先んじて制し、「逆差別」ではないかという議論の種にもしているのです。

       政治は難しい。
       特に「民族・宗教・生活格差」を語る時には要注意。
       「差別」を問題にして取り上げている裏に、「差別主義」の先制攻撃の意図があったりする。
       交渉事の要諦でもありますが、「相手が問題にするより先に論じて安きで解決させる」という。    
       台東区議会でも、与党連が「子育て・高齢者福祉」の論議で使用する手法です。
       最初に”課題”を取り上げた者が、その”課題”の理解者だとは限らない。
       ここが政治の難しいところです。 

[ http://www.horikoshi.org/cgi-bin/note2/c_note.cgi?v=5244 ]




 
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